普通の食べ物

京都の嵯峨に住んでいると、野菜に関しては、どこの誰が、いつ収穫したものか、素性の明らかな物を気軽に食べることができる。今から何時間か前まで近所の畑でなっていたなすとか、かぼちゃとか、きゅうりとか、とうがらしとか、トマトとか、ま、ひととおりの野菜を買うことができる。その上、誰それのトマトは皮が固いとか、糠の古漬けにはどこそこのキュウリがいいとか、選択の余地がある。それにくらべると、肉や魚は素性がわからないものだらけだ。コンビニに売っている軟骨いりつくね棒など、いったい何の肉をどのように加工したものが使われているのかよくわからないし、たぶんその製造工程の一部始終を目にしたら口にできなくなるかもしれない。魚に関しては近くの海で今日あがったばかりのものをいつでも安価に手に入れるという方法がない。パック詰めされた切り身の養殖の魚も肉もどのように生産されているのか実はよく知らない。売り手にとってそんなことは知らせる必要がないことのようだ。
海の近くに家のある人は恵まれている。素性の明らかな漁船からあがったばかりの魚を食べることができる。その点非常にうらやましい。でも車が錆びやすいことくらいは我慢できるが、近くに原発があるのはやっぱり嫌かも。